「メキシコの日系移民の歴史の足跡」をたどる旅①~タパチュラ・メキシコ~
- ナシオ
- 2016年9月29日
- 読了時間: 5分
サン・クリストバル・デ・ラス・カサス、略してサンクリの街からグアテマラとの国境まで10数キロの場所にあるタパチュラと言う街にやって来た。
サンクリから出発するバスでグアテマラのどこかへ直行便で行くつもりだったのだが、タパチュラから車で一時間ほどの場所にあるアカコヤグアの村が持つ歴史に惹かれて寄り道する事にしたのだ。
ハワイやカリフォルニアに続き、明治時代の日本の国策としての移民政策により中南米地域へ初めての日本人の移民が海を渡りやって来たのがそのアカコヤグアと言う村だと言うのだ。
何かその移民たちの足跡の様な物に触れる事が出来るかもしれないと言う期待が寄り道をさせたのだ。
そんな気にさせたのは歴史好きな自分の性分だけではない。
サンクリの宿「カサカサ」で出会った物書きの女の子が居た。
沢木耕太郎の「深夜特急」が好きな事が共通点で話が盛り上がり、日々夜遅くまでおっさんの話し相手になってくれていた。
旅路の話をしていると、太平洋戦争の激戦地フィリピンのレイテ島へ足を運びジャングルの中にある慰霊碑を自ら探し出し慰問したと言うのだ。まだ20代の彼女がそんな事をする意外性に驚いたし、サンクリで惰眠をむさぼるばかりの自分の姿が恥ずかしくもなった。
そんな彼女の話にに焚きつけられた事もあってか、僕は「メキシコの日系移民の歴史の足跡」を辿る事にしたのだ。
サンクリを夜中に出ておよそ8時間、朝の8時前にタパチュラの街へ到着した。
バスで隣の席になったおばさんから、「タパチュラは殺人や強盗が沢山あるの。あなたも気を付けないさいよ。」と言われていたので自分なりの警戒レベルを上げて宿まで歩く事にした。
目当ての宿まで30分弱歩き無事にチェックインし、バックパックをを降ろすとすぐに街へ出た。
サンクリの「カサカサ」で下調べをしておいた「タパチュラ日系文化クラブ」へと足を運ぶ事にしたのだ。
ジャーナリスティックな気分がそうさせたのか夜行バスの疲れも大して気にならず、身も心も軽やかな朝だった。
宿から近い街の中心、靴磨きや煙草売りなど朝から人の多いソカロ(広場)を通り抜けて路地へ入り込む。とは言っても暑いタパチュラ、みな木陰に入り強烈な日差しからその身を隠している。

路地に少しせり出した看板には「合気道」やら「日本語」と漢字で書かれていたのでクラブの在りかはすぐに分かった。

コの字型になった建物の奥へ進む途中、誰かと電話をしながら自分に向かってお辞儀をする人とすれ違った。
しかしその時はクラブに行く事に気を奪われていて軽くお辞儀を返してクラブへと足を進めた。
クラブの前へ着くかどうか、といった所でお辞儀をしてきた人から声がかかった。
「日本人ですか?」
電話を終えた彼から日本語で話しかけられたのだ。
クラブの関係者なのか?と思い、日本人である事とクラブを見学しに来た事を伝えた。
話をしてみれば関係者どころか、クラブを運営する日系二世の浜田さんという方だというのだ。日本語も達者なものだった。
サンクリの宿、「カサカサ」に有った情報ノートに彼の連絡先も書いてあったのだが、自分が直接足を運んで会ってみたいと思っていた人なので相手方から声を掛けてもらえた事に驚いた。
話を聞けば、クラブは朝の「禅」のコースが終わったところであり浜田さんはクラブを閉めて帰るところだったというのだ。
タパチュラやアコヤカグアの日系移民に興味がある事を伝えると、大して話もしないうちに浜田さんは僕を日系の方に引き合わせてくれる事になった。
いきなり事が動き出した事で少し戸惑ったが、浜田さんの後について通りへと足を進めた。
クラブから少し歩いた所にある住居兼工場の様な場所へ着くと、初老の男性が出迎えてくれた。
ツジさん~正確にはフェリペ・アレジャノ・マコト・ツジなのだが~は1941年タパチュラ生まれの日系の方だ。
僕の父と歳も近く、話す物腰もその表情も柔らかで親近感を覚えた。
用事があるという浜田さんはその場を去り、日本語はほとんど話せないと言うツジさんと二人でスペイン語で話す事になった。
旅には困らない程度のスペイン語能力しかない僕に、ツジさんは分かり易くゆっくりと話してくれた。この時話して分かった事は、ツジさんは日系三世であり、祖父のルイス・マコト・ツジさんは滋賀県の出身であり、工場に見えた一角はパン工場だと言う事だ。
ツジさんは大きな封筒から古い写真を何枚か出して見せてくれた。
これは祖父のマコト・ツジさんの写真。

こちらは1936年、メキシコのベラクルスにて撮影された日系の方々の写真。

こちらはお父さんのパストラーナさん。

そしてこちらはお母さんの若い頃の写真。

これらの古い写真を見せてもらっていると「メキシコの日系移民の歴史の足跡」を自分なりにしっかりと記録しておかなければならない気がして、メモを取りつつツジさんの話を聞いていた。
その後ツジさんにホテルのブッフェ形式の朝食をご馳走になりながら、数ある日系団体の話や最近タパチュラに増えてきたアフリカ系の人々の話や街の治安状況などを聞いた。
中でも日系団体全てが仲良しでは無いと言う話が一番興味深かった。
辻さんと別れて昼頃に宿へ帰ると、興奮状態も収まり疲労を感じたようで昼寝をたっぷりと取ってしまった。
しかし確実に「メキシコの日系移民の歴史の足跡」を辿る旅は動き出していた。
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