「メキシコの日系移民の歴史の足跡」をたどる旅②~タパチュラ・メキシコ~
- ナシオ
- 2016年10月1日
- 読了時間: 5分

タパチュラ到着初日に日系の方と会う事が出来た僕は、翌日「榎本殖民団」が到着したと言うプエルト・チアパスへ足を運ぶ事にした。
榎本殖民団とは、幕末から明治にかけて活躍した武士・政治家である榎本武揚の主導のもとで組織された移民グループである。
1897年、36名からなる榎本殖民団は横浜港を出港しアメリカのサンフランシスコ・メキシコのアカプルコを経由した後、プエルト・チアパスに到着した。
その頃はサン・ベニート港という名前だったプエルト・チアパス。 しかし36名のうちの1人は船旅の道中に亡くなってしまい、35名がプエルト・チアパスに上陸した。
タパチュラの街からコレクティーボ(1BOXを改造したミニバス)で1時間ほどで行けると聞いていた。
朝早くに起きた僕はタパチュラで一つ見ておきたいものがあったのでそれを済ませてから行く事にした。
それはタパチュラの街にある秋篠宮殿下の名を冠した通りだ。
「bulevar Akishino(秋篠大通り)」
秋篠宮殿下が日系移民100周年、1997年にメキシコを訪問した際に敬意を表し改名されたと言う。よほど立派な通りなのかと思っていたのだが、実際に足を運ぶと街の外れにある少し寂しい大きな通りだった。

PEMEX、ガソリンスタンドも「Akishino」の名がついていた事には驚いた。


この通り沿いには「榎本協会日本メキシコ会館」と言う建物があり、小さな記念碑が見受けられたが鉄の扉は施錠されていて人気は無かった。
誰も居る様子もないので立ち去ろうとすると、建物の横の路地が「Calle Enomoto (榎本通り)」となっていた事に気付いた。

メキシコでは人名や記念日が通りの名前になっている事が多いが、この辺境の街で日本人の名がついた通りを一気に2つも見るとは思わなかった。
炎天下の中さほど面白くもない通りを端から端まで歩き疲れたので、日陰になっている公園のベンチに座って休むことにした。
「街へ戻ってプエルト・チアパスへ向かうかな…。」
そう考えていると、一人のおばさんから声がかかった。
「どこへ行くの?」
「沢山歩いて疲れて今休んでいます。この後プエルト・チアパスへ行こうと思っています。」
僕がそう答えると彼女はこう言った。
「コレクティーボを乗り換えればここから行けるから、乗り換え場所まで一緒に行きましょう。」
と。
街へ戻る手間が省けた事とおばさんの好意で暑さも少し和らいだように感じた。
コレクティーボがやって来て二人で乗り込んだのだが、おばさんは僕の分のお金も払ってしまったではないか。それはさすがに申し訳ないとおばさんにお金を渡そうとするが、頑として受け取らない。
乗り換え場所に着くと、
「ここで待っていればプエルト・チアパス行きのコレクティーボが来るから待っていなさい。」
と言って、おばさんは向かいのスーパーのような店に走り去って行った。
旅の道中こういった人の好意に救われる事が多々あるので、日本に居る時は困ってそうな外国人を見るとつい話しかけてしまう。こうやって好意の連鎖が続いて世の中が少しでもマシになれば、と思うのだが。
言われた通りに待っていると「PUERTO CHIAPAS」と大きく書かれたコレクティーボがやって来た。
コレクティーボは「え、こんなとこで?」と思うような何もない場所でも客が手を上げればそれを拾い、そして降ろす。

そんな事を繰り返しているうちにプエルト・チアパスへ到着した。
早速海を見ようと思いビーチへ出たが、防波堤代わりの岩が積み上げられていて見た目には美しくない。

特に何もない、寂しい村だった。
120年前はもっと何も無かったであろうこの場所に着いた35人の男たちは何を思ったのだろうか。
もっと港らしき場所があるのかと思い、バイクタクシーの運転手に地図を見せて話を聞いた。しかし、少し走った所にビーチと観光客相手のレストランがあるくらいだと言う。
せっかく来たので彼のバイクタクシーに乗り、そこへ行ってみる事にした。

確かに海の家の様なシャワーやトイレを備えたレストランが多く存在していたが、客は少なく閑散としていた。

いくらか大きな船が接岸しているのが見えたのでレストランとレストランの間を抜け、舗装の無い道を歩き近づいてみた。

あたりでは網を直す漁師の姿やハンモックで昼寝をする人々の姿が見えた。昼間で暑いせいなのか実にのんびりとした空気が流れていた。

とにかく1897年にこのひなびた漁村から「日系メキシコ移民の歴史」は始まったのだ。

榎本殖民団はここからタパチュラを経由しアカコヤグアの隣のエスクイントゥラ村までの間およそ120㎞徒歩で移動した。しかし昼間の炎天下の移動で体調を崩す人も多く、夜間の移動に切り替えたと言う。
バックパックを背負って1キロも歩けば汗びっしょりでぐったりしてしまう僕からしたら、彼らの相当な苦労が想像できた。
帰り際ビーチの手前にある公園に有ったモニュメントに目が留まった。
もしかしたら移民に関するものかもしれない、そう思って辺りにいた人にそれが何か聞いてみた。
「日本人が作った記念碑だ。」
やはりそうだったのだが、外したのか外されてしまったのか銘板が何処かに行ってしまったようでパッと見何が何だかわからない。銘板を留めていたネジの跡の様な物はわかるのだが。

何処か寂しさを感じてしまうプエルト・チアパスだった…。
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