「メキシコの日系移民の歴史の足跡」をたどる旅③~タパチュラ・メキシコ~
- ナシオ
- 2016年10月2日
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1897年榎本殖民団が上陸したプエルト・チアパスへ足を運んだ翌日、浜田さんの運営する「タパチュラ日系文化クラブ」へお邪魔する事になった。
日系二世の浜田さんが運営するクラブでは、日本語教室・合気道(剣術・護身術を含む)・禅・折り紙などのコースを開催している。13年前からクラブは活動しているそうで、現在は全て合わせると20人ほどの生徒さんが居ると言う。
コースのほぼ全ての講師を浜田さんが務め、彼は仕事の傍ら多くの時間をクラブに費やしている。

その日は合気道のコースがある日で、その様子を見学して写真を取らせてもらおうと思っていたのだが、メキシコ人の生徒さん達と一緒に合気道の練習に参加する事になってしまった。
合気道のコースは18時から20時頃まで行われた。
コースの始まりは、浜田さんの前に僕を含めて7人の生徒が正座をして並び床に手をついて礼をする事から始まる。続いて合気道の創始者、植芝盛平の写真に向かって礼をする。この間浜田さんの号令はすべて日本語だ。

基本の構えや足の動かし方などから始まり1時間もすると、実践的な練習になり、二人一組となって攻撃してくる暴漢側と合気道でそれを制圧する側に分かれる。ナイフを模した小さな木刀やプラスティックバットを使ってくる相手から身をかわし、手や腕を極めてねじふせる。

まだ日の浅い生徒さんも多く、前後左右体の動きがめちゃくちゃになってしまう人も居たが、残念な事に僕もその一人であった。
この日、小学生くらいの子供もいたのだが運動音痴っぷりが酷かった。
浜田さんによればメキシコでは日本の体育で行われるような体操や跳び箱のような運動をせず、サッカーをしたりして遊ぶ事が「体育の時間」と言うらしい。その為、身体を動かすのが苦手な子供が多いと言う事だ。
興味深かったのは、浜田さんが色々と説明する時に生徒さん達は互いにおしゃべりしたり足の延ばしてだらけて座って居たりしているので一見やる気が無い様に見える。かと思えば、自分の気になる事を突然聞質問していていたりするので、やる気が無い訳では無いようだ。
日本人が堅苦しいのか、メキシコ人が師に対するリスペクトが無いのか。何か根本的な違いを感じた。
何はともあれ、仕事が日々の運動だった僕にとっては体を動かし汗を流すのが久しぶりだったので、コースが終わる頃には爽やかな疲労感に包まれた。
礼に始まり礼に終わったコースは終わり、1人の生徒さんになぜ合気道を始めたのかを聞いてみた。
彼はこう言った。
「僕の住んでいる場所は治安が悪くて。それで自分の身を守るためにはじめた。」と。
メキシコの辺境の街らしい回答だった。
タパチュラは中南米各地にとどまらずアフリカからなど多種多様な国からの人間で溢れかえっている事や貧困からか治安が悪い。
中南米やアフリカからタパチュラへやって来た人々はそのままメキシコで働いたり、アメリカへ不法入国して働いたりするそうだ。
翌朝は9時から日本語のコースにお邪魔してみた。
生徒さんは4人くらい来ると聞いていたのだが、時間に間に合うように来たのは1人、もう1人は大幅に遅刻、その他は無断欠席のようだった。この辺りも「メキシコ人」を感じる。
授業が進むと僕は彼らの会話の練習相手になった。まだ日本語を始めて一か月ほどの二人には、日本語の「~が」「~に」「~を」「~は」の使い分けが難しいようだった。

面白かったのは、彼らが自分の名前に「~さん」をつけて自己紹介をしてしまうところだった。
「私はゴメスさんです。」と言ったような感じになってしまうのだが、聞いている分にはなんだか可愛らしく聞こえる。
生徒の1人、水道関係の仕事に就くラファエルさんは日本が大好きで日本語を始めたと言うのだが、携帯で見せてくれた写真は僕が良く知らないアイドルだった。
やはり日本のアニメやTVが好きらしく、いおわゆる「ヲタク」層に日本語教室は人気があるようだ。
浜田さんは10時ピッタリに授業を終えると、こう言った。
「タカナシさん、今日はアカコヤグアに行きましょう!」
アカコヤグアは榎本殖民団を讃える大きな記念碑のある場所だ。
プエルト・チアパスからアカコヤグアの隣村、エスクイントゥラに到着した榎本殖民団はマラリヤ・土地に適さないコーヒーの栽培・雨季の強烈な雨など諸々の悪条件に見舞われた。
それらに耐え切れず逃亡する物も現れ、およそ三か月で殖民団は崩壊する事になる。
殖民団のおよそ半数である18名はエスクイントゥラからメキシコシティまで1200~1300キロを歩き、在墨日本大使館に駆け込み窮状を訴えた。
しかし日本に居る榎本からの回答は彼らを見捨てるものだった。
「各自勝手に職を探せ。」と言う非情な回答だったのだ。
彼らは見捨てられた移民、「棄民」となってしまった。
1900年には自身が社長であった日墨拓殖株式会社(殖民団の資金集めの為に設立)から榎本は身を引き、榎本殖民団のプロジェクトは完全に崩壊した。
しかしエスクイントゥラに残った6人の移民達は地元の人々とも交わりつつ、この地方で農業や牧畜など様々な事業を興し生き抜いていた。そんな彼らがメキシコにおける日本人移民の礎を築いたともいえるだろう。
アカコヤグアには「RANCHO TKAJUKO(タフコ農場)」と言う、榎本殖民団35名のうちの1人山本浅次郎氏が興した牧場があると言う。
そういった歴史もあり、今回僕にとって一番足を運んでみたい場所がアカコヤグアだった。
僕は「NISSAN」と大きく書かれた浜田さんのピックアップトラックに乗り込み、念願のアカコヤグアへと向かった。

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