「メキシコの日系移民の歴史の足跡」をたどる旅⑧~タパチュラ・メキシコ~
- ナシオ
- 2016年10月12日
- 読了時間: 5分
二度目のアカコヤグアへの旅を終え、見るべきものは見たような気になっていた。
あとはタパチュラにあるいくつかの日系人ゆかりの場所を見学すれば、自分なりの「メキシコの日系移民の足跡」をたどる旅も終わりだと思っていた。
毎日行われる「タパチュラ日系文化クラブ」の何かしらのコースに参加しながら、足跡をたどる事一週間。 土曜日、週の最後に行われる「禅」のコースに参加したのが「タパチュラ日系文化クラブ」を訪れた最後だった。
やって来た生徒は一人。そのゲイの男性は失恋を機に「禅」のコースを始めたと言う。マッチョ信仰(マチスモ)のメキシコでもゲイは多い。メキシコシティなんかだと、公衆の面前で熱くいちゃつく彼らの姿をよく目にする。
10分ほど座禅を組み、さほど広くない教室を少し歩く。それを3セット繰り返し「禅」のコースは終わった。
コースが終わった後、浜田さんに明日か明後日にはタパチュラを離れてグアテマラに行く事を伝えた。
その時、浜田さんと話していて印象的だった一言がある。

「武士道、大和魂と言うものが好きなんですよ。」

幼い頃少し日本に居た事があると言う浜田さんは、まさに「海を渡ったサムライ」だった。
榎本殖民団も明治時代の話なので、江戸時代の「サムライ」の気概を持った人達だったであろう。
そんな「サムライ」達も、アカコヤグアに入植した時は相当な苦労をしたようだ。
榎本殖民団36名の1人、有馬六太郎氏はこう記したという。
「来て見て驚いたのは一帯に恐ろしい岩山である。こんな所にどうして珈琲が作れるのか...(中略)吾々はほとんど絶望に近い心持になり乍ら(ながら)働くことは大いに働いた。夫れ(それ)は確かに日本に居る頃の二倍は働いたに違いない。」~『彼等は其の如くメキシコに奮闘せり』(青山正文著、1938年)より~
そんな絶望的な状況から事業を興し、三奥組合を結成して事業を軌道に乗せたがメキシコ革命の動乱期を迎えた彼ら。
メキシコ革命によって一度途切れてしまったかのように思えた日系人社会は、今日まで脈々と繋がりメキシコ社会に溶け込んでいる。
タパチュラを離れる前に、一度お邪魔した「日墨協会チアパス」を訪れる事にした。前回訪れた時は夜だったし強烈なスコールに見舞われ、建物の外観の写真が撮れなかったからだ。
浜田さんと別れ、「日墨協会チアパス」へと歩いた。前回の記憶を頼りに強い日差しの中20分ほど歩いた。
協会の門は閉まっていたが、何回か叩くと一人の女性が門を開けて中へと通してくれた。

中へ通してくれた女性は、前回僕が浜田さんと一緒に来た人間だと言う事を覚えてくれていたようだ。
少し話を聞きたいのと写真を撮っても良いか?とその女性に聞くと、どうぞどうぞと言って歓迎してくれた。
敷地内で育てているモリンガの事や、日本語教室があったが講師の方が亡くなり今はやっていない事などを聞いた。

日墨協会で働いている方だろうから、彼女も日系に違いないだろうと思って聞いてみた。
やはり彼女は日系の方で、4世との事だった。
1世から4世まで、彼女に至るまでの歴史を尋ねてみた。
「曽祖父は1800年代の終わり頃に来たはずよ。詳しい年は分からないけど。」
榎本殖民団が1897年にメキシコにやって来ているから、1800年代の終わりと言えばそのうちの1人かも知れない、そう思って彼女の曾祖父の名前を聞いた。
すると彼女は僕のメモ帳にこう書いた。
「ROKUTARO ARIMA」
先に述べた、当時の絶望的な状況を記した有馬六太郎氏が彼女の曾祖父だったのだ。

榎本殖民団の36名のうちの1人の子孫ではないか。
アカコヤグアにある記念碑に遺された36名の榎本殖民団の名前の中にも、彼女の曽祖父『有馬六太郎氏』の名前があった。

「海を渡ったサムライ」の子孫の方にお会いできるとは。
感慨深い瞬間だった。
この自分なりの「メキシコの日系移民の歴史の足跡をたどる旅」のゴールにたどり着けた気がした。
深い話になるとスペイン語が理解できず残念にも思ったが、彼女に出会うことが出来た事だけでも満足だった。
彼女の仕事中に無駄な長居は無用と思い、彼女に沢山のありがとうを伝えて「日墨協会チアパス」を後にした。
僕は最後にフェリペさん(辻さん)にタパチュラを離れる事を伝えに彼の家に向かった。彼に会い簡単に別れの挨拶を、と思っていたが家を訪ねるとフェリペさんは奥様とお母様を紹介してくれた。
フェリペさんのお母様は日系2世、御年95歳だと言う。
車いすに乗ってはいたが、発する言葉もハキハキしていて元気一杯に見えた。
僕はこの家族の写真を撮っておきたくなった。

今なお受け継がれている日系の血。
メキシコ社会に溶け込みながらも、日系人としての誇りを持つ人も多く感じた。
さらに世代が進んで行けば、メキシコに同化して「日系」と言う意識は無くなっしまう物なのかも知れないが。
この旅が35人の榎本殖民団が上陸したプエルト・チアパス(プエルト・マデロ)に始まり、最終的にその一人の子孫の方にたどり着くことが出来るとは思いもしなかった。
自分なりにメキシコの日系移民について理解を深め、さらにそれを体感することが出来た気がする。
興味本位で始めた「メキシコの日系移民の歴史の足跡をたどる旅」はこれで終わりとなる。

調べも甘く大した情報を記してはないが、このブログを読んでメキシコにおける日系移民の歴史に少しでも興味を持ってもらえば、と思っている。
次回は今回訪ねたタパチュラ・アカコヤグアの日系移民に関する施設などを記して、このシリーズを終える事にする。
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