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「メキシコの日系移民の歴史の足跡」をたどる旅⑥~タパチュラ・メキシコ~

  • ナシオ
  • 2016年10月8日
  • 読了時間: 4分

アカコヤグアから帰り、再びタパチュラ日系文化クラブの日本語のコースに参加した。

普段ボケーっと過ごしている自分からした大忙しの一日である。

生徒は小児科医のドクトル・ペレスさんと言った。

日本語を始めて一年だそうで、その日本話を聞くと自己紹介は何とかクリアできると言ったレベルだった。

お互い自己紹介を日本語でしたりしながら、ドクトルの話し相手になった。日本語での会話はもどかしい部分もあったが、「今度ビールを飲みに行きましょう!」と彼からお誘いを受けた頃授業は終了した。

比較的強い雨が降る中、浜田さんと会館を閉めて「チアパス日墨協会」へ向かった。

今、日本大使館の方がそこに来ていて何やらミーティングをしているらしい。

へ?と思ったが、浜田さんが僕にも是非と言うので彼にくっついていく事になった。

街の中心ソカロあたりから浜田さんの運転する車で少し走った所に「チアパス日墨協会」はあった。

トントントンと浜田さんが門を叩く。中から出てきた人に門を開けてもらい敷地に通され建物へと招かれた。

ミーティングはすでに始まっていて、テーブルを囲み10人ほどの人々が何やら真剣に話し合いをしていた。このミーティングは11月にタパチュラ・アカコヤグアを日本大使が訪問するにあたり、日墨協会がそれをサポートするので事前の準備・当日の流れなどの確認をしていると言う事だ。

部外者の僕はテーブルから離れた所に座ってしばらくミーティングの様子を伺っていた。

場違いな場所に来てしまったに違いないと思って少し緊張もしていたが、先日お会いしたフェリペさん(ツジさん)の姿もあったので少しほっとした。

話が一段落したのか、僕は浜田さんに呼ばれて日本大使館の職員やそこに集う日系の方々に挨拶する事になった。

自分がメキシコを旅行中で榎本殖民団について興味がある事を伝えるたが、みなの注目は僕の足袋に集まっていた。

緊張のあまり日本大使館の職員の方の名前は忘れてしまったのだが、この会議に参加している日墨協会の荻野さんと言う方と少しお話しをすることが出来た。

荻野さんはミーティングの最中に席を離れ、僕の所にまでやって来て話をしてくれた。

荻野さんは日本とメキシコの間の歴史を研究してらっしゃるようで、後で分かったのだが「日墨500年回想記」なるものを記した方だった。

僕が榎本殖民団について少し調べていると話すと、普段はメキシコシティーに居るから何かあれば連絡しなさいと言って荻野さんは僕に連絡先を書いたメモを渡してくれた。

足袋と作業着姿のおかしな恰好をした僕にも、歴史を探ると言う共通点からか荻野さんは優しく接してくれた。

~荻野氏は『週刊日墨』という邦字紙の代表・編集長だったそうで、榎本殖民団入植100周年の1997年に廃刊になるまで『週刊日墨』に力を注いだという。漫画『サムライたちのメキシコ』にも登場されている。~

日本とメキシコの歴史を研究している方と出会う事になるとは思いもしなかったので、この場に来ることが出来て本当に良かったと思えた。

ミーティングの終わりには大使館職員の方も交えて記念撮影。

記念撮影も落ち着くと、大使館関係者やメキシコシティーから来た方々は帰って行った。

しかし日墨協会チアパスの方々は居残り、さらにミーティングを重ねていた。

熱心に活動する姿に日系の人々の『真面目さ』を感じた。

宿に戻り、その真面目さや荻野氏との出会いを思い返していると、もう一度アカコヤグアに行かなくてはならない気がしてきた。

その日アカコヤグアで多くの物を見る事が出来ていた。

しかし榎本殖民団の1人が興し今なお続く農場、「Rancho Tajuko(タフコ農場)」を見る事は出来ていなかった。

浜田さんをはじめ多くの日系の人々に会って話を聞いたのに、足跡をたどる旅を中途半端に終わらせる事が出来ない気がしたのだ。

 
 
 

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